熱田流の歴史ブログ
今日と歴史を結びつけて、熱田流のブログを、構成していく。
「安倍改造内閣が発足」
.. 今日は、8月27日。
.. 「何の日」ですか。

.. 2007年8月27日 - 「安倍改造内閣が発足」。

.. 2007年9月10日、安倍首相は第168回臨時国会の所信表明演説を行なったが、代表質問が始まる予定の9月12日、緊急記者会見を開いて首相の職を辞することを表明した。
.. 表向きの理由は「テロとの戦いや改革を円滑にすすめるために自分が身を引くことが最善だと判断した」ということであったが、後日判明した本当の決定的理由は過度のストレスによる機能性胃腸障害の悪化(脱水症状・体重減少・体力の著しい減退等)であった。
.. 安倍は翌13日から慶應病院に入院し、新首相が決定するまで病室で首相としての執務を続けた。
.. 内閣総辞職は、同年9月26日、安倍が首相官邸に出向くことによって行なわれた。

.. 安倍首相の辞任やそのタイミングは参院惨敗が予想された頃から取り沙汰されていたものの、この首相辞任劇はメディアや国民の多くにとって予想外の展開であり、自民党総裁選と併せて連日メディアで殊更大きく報道され続けた。

.. 本当ですね。安倍内閣が、続いていたら、まだマシだったか。


「中尊寺金色堂建立の日」
.. 今日は8月20日、「何の日」

.. 「中尊寺金色堂建立の日」

.. 棟木墨書名から8月20日が上棟の日となっている。

.. 中尊寺金色堂は岩手県にある平安時代後期建立の国宝の仏堂である。
.. 奥州藤原氏の初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立した。

.. 中尊寺の殆どの建物が消失したとされる建武4年(1337年)の火災で、金色堂
は難を逃れ、創設時の唯一の遺構となった。
堂内には三つの仏壇(須弥檀)があり、各仏壇の下には清衡、基衡、秀衡の藤原3代の遺体を収めた棺が安置されている。
.. 内部は金箔で覆われ、金色堂の名の通り、堂は内外ともに総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に
至るまで漆塗りの上に布を着せ、金箔を貼って仕上げられている。

.. これだけの金をどこから集めたのだろうか。金に纏わる日本の技術は実に素晴らしいに尽きる。
.. しかし、金色堂は長年に亘る痛みがひどくなり、昭和37年から6年をかけて解体修理が行なわれ、金色堂はコンクリート製の覆堂で保護された。

.. 松尾芭蕉の名句 「五月雨の降り残してや光堂」がある。

「忠犬ハチ公の銅像再建」
.. 今日は「何の日」

.. 「忠犬ハチ公の銅像再建」

.. ハチの銅像は第二次世界大戦中に金属資源不足により供出され、浜松工機部で溶かされ機関車の部品となって東海道線を走った。

.. 現在のものは1948年8月15日に再建されたものである。

「専売特許の日」
.. 今日は「何の日」

.. 「専売特許の日」
.. 1885年8月14日に、特許第1号が交付された。
.. 特許第1号は堀田瑞松が出願していた「堀田錆止め塗料とその塗り方」であった。
.. この他に第7号までが、交付。

.. 特許及び発明に関する記念日としては、他に4月18日の発明の日がある。
.. 残念ながら、特許庁等による記念行事はもっぱら発明の日に行われており、専売特許の日には特段の行事は行われていない。

「吉田岩窟王の日」
.. 今日は「何の日」

.. 「吉田岩窟王の日」

.. 1913年8月13日の夜、現在の名古屋市千種区の路上で繭小売商の男性が殺害され、1円20銭が奪われた。
.. 翌日被疑者として2人の男性が逮捕されたが、彼らの供述から主犯として吉田石松(当時34歳、1879年-1963年)が逮捕された。
.. だが、この供述は共犯者が自分たちの罪を軽くするためにまったく無関係の第三者であった吉田を主犯にすりかえたものであった。
.. 当時の捜査当局は自白偏重主義であり、この虚偽の自白を真実と信じて吉田に拷問を加えたが、終始否認を続けた。
.. にもかかわらず、一審では「従犯」とされた2人に無期懲役、吉田に死刑が言い渡された。
.. 控訴審、上告審では無期懲役が言い渡され、刑が確定して吉田は服役した。

.. 吉田は1918年に獄中からアリバイの成立を主張して2度の再審請求を行ったが棄却された。
.. 吉田は小菅監獄に入れられていた。しかし、無実を訴え、獄中で暴れてたりしていたため拷問を受けていた。
.. 吉田は網走へ移動させられる。しかし、そこでも小菅での様子と変わらずにいた。
.. そして秋田刑務所へ移された。
.. 秋田刑務所の所長がこの事件の不審な点について調べなおし、吉田が関与していないことに気づく。
.. そして仮出所の手続きを試み(罪を認めていない吉田を仮出所させるのは異例だった)、無実を訴え暴れていた吉田に再審請求を薦める。

.. そして1935年3月に仮出獄したのちに、自分を陥れた2人が先に1930年に仮出所して埼玉県にいるのを新聞記者の協力で探し出し、虚偽の自白をしたことを認める詫び状を1936年11月に受け取った。
.. 探し出すにあたって協力した大審院担当の司法記者が、この様子を1936年12月15日付都新聞(現:東京新聞)にアレクサンドル・デュマ・ペール著の小説「巌窟王」になぞらえた「今様巖窟王」として掲載した。

.. この詫び状をもとに3度目の再審請求を行ったがこれも棄却された。
.. 吉田はその後第二次世界大戦中も疎開先の栃木県から無罪を訴え続けた。
.. 戦後になり1952年6月には新聞社や弁護士にも訴え、1958年には4度目の再審請求を行ったがこれも棄却された。
.. しかしこの頃になると世論の関心も高まり、1959年10月には日本弁護士連合会が特別委員会を設置し国会も人権擁護の観点から動き出した。
.. そのため1960年4月には5度目の再審請求を名古屋高等裁判所第4部(裁判長小林登一、陪席裁判官成田薫、布谷憲治)が認めたが、検察側が現行刑事訴訟法に基づいて異議申し立てを行い、異議審の名古屋高等裁判所第5部(裁判長影山正雄、陪席裁判官 谷口正孝、中谷直久)では検察側の異議申立が認められ一度は取り消しになった。
.. しかし弁護人の特別抗告を受けた最高裁は、昭和37年10月30日の大法廷決定で、本事件には旧刑事訴訟法および(旧)刑事訴訟法応急措置法が適用され、検察官の現行刑事訴訟法に基づく異議申立は不適法として、名古屋高裁の判断を違法なものとして取り消したため、ようやく再審が決定し1962年12月6日から名古屋高等裁判所第4部で再審公判審理が開始された。

.. 名古屋高等裁判所第4部(裁判長小林登一、陪席裁判官成田薫、斎藤寿)は1963年2月28日に、吉田のアリバイが成立することを認め無罪判決を言い渡した。

.. この判決は冒頭で「……しかしてこの間の、実に半世紀にも及ぶその無実の叫びに耳をかす者からは、被告人はエドモンド・ダンテスになぞらえられ、昭和の巖窟王と呼ばれるにいたつたのである。」と本件の経緯について説示し、判決文の最後では冤罪に対する謝罪が行われ被告人ではなく吉田翁として問いかけ、「これらの事情が相俟つて被告人の訴追をみるにいたり、わが裁判史上曽つてない誤判をくりかえし、被告人を二十有余年の永きにわたり、獄窓のうちに呻吟せしめるにいたつたのであつて、まことに痛恨おく能わざるものがあるといわねばならない。……(中略)……ちなみに当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤をひたすら陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である」と締めくくられている。

.. 判決宣告後には、出廷していた裁判官3人が頭を下げる場面があった。
.. その後不当に身柄拘束された21年7ヶ月7日(7889日)の月日に対し1日あたり400円の刑事補償が支給された。
.. 吉田は1963年12月1日に老衰によって永眠(享年84)した。




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.. 古希を過ぎて、若さを保つ秘訣。
.. それは、クヨクヨせず、何に対しても批判精神をもつ事。

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