熱田流の歴史ブログ
今日と歴史を結びつけて、熱田流のブログを、構成していく。
「松陰忌」
.. 今日は、10月27日、「松陰忌」

.. 1830年10月27日、吉田松陰が、処刑された。29歳でした。

.. 松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、1856年8月から1858年12月までのわずか2年余りに過ぎなかった。
.. しかし、その短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、しかし一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていった。
.. 講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。

.. 松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言った。
.. また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、
.. 学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。

.. 松陰の教育を受けた門下生達は、後に京都で志士として活動した者や、
.. 明治の新政府に関わる者など、大きな活躍を果たすことになる。
.. 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など。

.. 船井総研の調査では、日本には教育の名人が2人いる。
.. 吉田松陰とクラーク博士である。
.. どちらも、僅かな期間でしたが、何人もの俊才を出している。
.. その秘訣は、弟子をありのままに受け入れて、
.. 褒めて力づけた、ことだったのです。

.. 本人に自信を持たせること、でした。

.. いま、小学校教育界で、有名な、親野智可等せんせいも、
.. 子どもを育てるのは、共感と受容、そして褒めること、
.. と、言っておられます。

.. 塾で、ただ、問題の解き方を習う、教育。
.. 学校は、塾で学ぶための、休息。

.. これじゃ、軸が違う。

.. 公教育が復活する日はいつだろうか。


「吉田茂の命日」
.. 今日は、10月20日、「吉田茂の命日」

.. 1967年10月20日、吉田茂が89歳で逝去。
.. 敗戦間もない1946年に、内閣総理大臣に就任、54年まで計5期(45・48?51代)務めた。
.. 功績は、いまさら、皆さまにお伝えする必要はありませんね。
.. その死は、国葬で弔われた。

.. ワンマンと呼ばれた。

.. 日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣。
.. 講和条約にも吉田を筆頭に、池田、苫米地、星島、徳川、一万田の6人全員で署名した。
.. 講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。
.. 講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。
.. 吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。
.. 向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろす軍の将校クラブの一室。
.. ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約にたった一人で署名した。
.. 条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。


.. 吉田とマッカーサー。
.. 吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまい信頼関係を構築することを努めた。
.. マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。
.. 復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。

.. 癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。

.. 田中義一が首相になった時、吉田は田中から総理秘書官就任を要請された。
.. しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。

.. ある日、会いたくなかった客に対して居留守を使った。
.. その客に居留守がばれてしまった。
.. 抗議をする客に対して、「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」と言ったとか。

.. 皇太子明仁殿下から、「皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っている」との話があった際に、
.. 「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した。
.. それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。

.. 晩年に、大勲位の勲章を授与された後、養父の墓の前で「受継いだ財産は使い果たしてしまったが、その代わり天皇陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。
.. 昭和39年11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。
.. 吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わている。

.. 日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、
.. 元気な様子を褒められると、
.. 「元気そうなのは外見だけです。
.. 頭と根性は生まれつきよくないし、
.. 口はうまいもの以外受け付けず、
.. 耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」、と。

.. 吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、
.. ある日大磯を訪れたある財界人が、
.. 「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。
.. なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、
.. 「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。
.. そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、
.. 「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑ったとか。

.. 単独講和を進める吉田に対し、東大総長南原繁が全面講和を主張した。
.. 吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。
.. 「学者風情に何がわかる」とばかり、南原を批判したのも有名な話。

.. 吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。
.. そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。
.. もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。
.. 白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない」と。
.. 「もっとも、その伝統の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」とも。

.. 1952年に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、
.. カメラマンにコップの水を浴びせたて、会場の拍手を浴びたのは有名。
.. この演説会は、丸山公園の会場でした。
.. 高校生の私(熱田)は、なぜかその会場に行っていました。
.. カメラマンにコップの水を浴びせたのを目撃しました。

.. 佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は平服で吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。


.. 普通の物差しでは測れないスケールの人ですね。





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.. 古希を過ぎて、若さを保つ秘訣。
.. それは、クヨクヨせず、何に対しても批判精神をもつ事。

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