熱田流の歴史ブログ
今日と歴史を結びつけて、熱田流のブログを、構成していく。
「御巣鷹山の日」
.. 今日は「何の日」

.. 「御巣鷹山の日」

.. 1985年8月12日 - 日航機墜落事故発生、日本航空のジャンボ機が群馬県の御巣鷹山の尾根に墜落。
.. 乗客乗員520名が死亡。
.. 4人が生存・救出。

.. ご冥福を、お祈りします。

「深海調査の日」
.. 今日は「何の日」

.. 「深海調査の日」

.. 「しんかい6500」、1998年8月11日試験潜航で最大潜航深度6,527mを達成。
.. 現在運航中の有人潜水調査船としては世界で一番深く潜ることができます。

.. 1991年より、調査潜航を開始する。

.. 性能諸元
.. .. 全長:9.5m
.. .. 全幅:2.7m
.. .. 全高:3.2m
.. .. 乗員数:3名(パイロット2名、研究者1名)
.. .. 最大潜航深度:6,500メートル
.. .. 最大速力:2.5ノット
.. .. 耐圧殻直径:φ2.0m
.. .. 潜航時間:9時間
.. .. 乗員生命維持時間:129時間

.. 2007年には通算1000回の潜航を達成しました。
.. これまで「しんかい6500」は日本近海に限らず、太平洋、大西洋、インド洋等の海域で海底の地形や地質、深海に生息する生物などの調査を目的とした潜航を行っています。


「形状記憶合金の日」
.. 今日は「何の日」

.. 形状記憶合金の日
.. 1982年8月9日、ベルギーで東北大学のグループが形状記憶合金を発表した。

.. 形状記憶合金とは、ある温度(変態点)以下で変形しても、その温度以上に加熱すると、元の形状に回復する性質を持った合金で、この性質を形状記憶効果という。

.. この合金は、チタンとニッケルの合金が一般的であるが、その他にも鉄-マンガン-ケイ素合金など、様々な素材で作られている。
.. 組成を変更することで任意の温度以上になった場合に予め設定した形状に変形する性質から、様々な分野での応用がみられる。

.. このような合金の性質が確認されたのは1951年のことで、1970年代頃から利用が研究され始めた。
.. しかし実用化が始まったのは1982年8月9日、ベルギーで東北大学のグループが形状記憶合金を発表したことに始まる。
.. 以後機械工学分野から医療分野にまで応用されている。

「青函トンネル開業記念日」
.. 今日は「何の日」

.. 「青函トンネル開業記念日」
.. 1988(昭和63)年3月13日、青函トンネルを通るJR津軽海峡線が開業した。

.. 青函トンネルは、全長53.85km、全長の43%が海底という世界最長のトンネルである。
.. 同時に青函連絡船が80年の歴史の幕を閉じた。

.. 2008年現在、トンネルとして世界一の長さを誇る。津軽海峡の海底下約100mの地中を穿ち設けられた。
.. 全長は53.85 km。約53.9キロであることからゾーン539の愛称がある。

.. 青函トンネルの木古内方には、非常に短いシェルターで覆われたコモナイ川橋梁、さらに長さ約1.2kmの第1湯の里トンネルが続いており、合計約55kmの一体化したトンネルのようになっている。

.. 青函トンネルを含む区間は海峡線となっており、北海道函館市〜青森県青森市間を結ぶ津軽海峡線の一部だが、新幹線規格で建設されており、将来北海道新幹線も通る予定になっている。

.. 長大なトンネル内の安全設備として、列車火災事故などに対処するため、青函トンネル途中に消防用設備や脱出路を設けた定点という施設が2箇所設置された。
.. これは1972年に国鉄北陸本線の北陸トンネル内で発生した列車火災事故を教訓にしたものである。
.. 開業後、この定点をトンネル施設の見学ルートとしても利用する事になり、吉岡海底駅と竜飛海底駅と命名された。
.. この二つの駅は、見学を行う一部の列車の乗客に限り乗降出来る特殊な駅である。

.. かつて青森駅と函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道(国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。
.. しかし、1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入、また1954年9月26日、台風接近下に誤った気象判断によって出航し、暴風雨の中、函館港外で遭難した洞爺丸他4隻の事故(洞爺丸台風)など、航路の安定が脅かされる事態が相次いで発生した。

.. これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。

.. 青森県東津軽郡三厩村(現:外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町を結ぶ西ルート、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町(現:函館市)を結ぶ東ルートが検討され、当初は距離が短く水深も浅い東ルートが有力視されたが、海底の地質調査の結果東ルートには掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西ルートでの建設と決定した。
.. なお、もし東ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路として建設され未完に終わった大間線と戸井線の建設が再開され、開通していたとも言われている。

.. 当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。
.. 整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されたスーパー特急方式を先取りしたような形となっている。

.. トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。
.. トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円であったが、実際には7455億円を要している。
.. 取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6890億円、実際には9000億円に上る。
.. しかし北海道新幹線の建設が凍結になり、更に関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めていた状況であったことから、トンネルの活用法が大きな問題となった。
.. 中には「トンネルを放棄してセメントで封鎖すべきだ」とか、「石油の貯蔵庫にすべきだ」という主張もあったが、結局は多額な投資をしたものを放棄するのは問題だとして、在来線で暫定使用を行う事になった。
.. なおこの時、カートレインの運行を行うことも定められていた(青函カートレイン構想)が、実現には至っていない。

.. 開業前には要した巨額の費用と収益があまりにも釣り合わないとして「無用の長物」、「昭和三大馬鹿査定」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。

.. しかし、開通後は北海道〜本州間の貨物輸送に重要な役割を果たしており、特に天候に影響されない安定した輸送が可能となったことの効果は大きい。
.. 対照的に、旅客は航空輸送の高度化・価格破壊などから減少が進んでいる。
.. さらに、2007年9月1日には青森函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっている。

.. 海底にあるため施設の老朽化が早く、保守管理は、線区を管轄するJR北海道にとって大きな問題になっている 。


.. 当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械自体の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできずに、やむなくTBMの前方まで迂回して坑道を掘って前から押し出すなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。
.. 本坑に先駆けて先進導坑を掘り進み、先の地質などを調査しながら本坑が後を追うという形式で掘り進むことになる。
.. 海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、セメントミルクを超高圧で岩盤へ注入し、セメントが固まった後そこを掘っていく方法である。
.. つまり坑道の太さ以上にセメントで自ら硬い岩盤をあらかじめ作り、そこを掘り進む理屈である。
.. それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。

「ボーイング747、羽田に初飛行」
.. 今日は「何の日」

.. ボーイング747、羽田に初飛行。
.. 1970年3月11日でした。

.. ジャンボジェットの愛称で呼ばれる。
.. この愛称は、19世紀後半にロンドン動物園やバーナム・アンド・ベイリー・サーカスで活躍した有名なアフリカ象、ジャンボの名前に由来する。
.. 当初ボーイング社では、「鈍重なイメージがあるこの愛称は最新鋭機にふさわしくない」としてこの愛称を認めず、「スーパーエアバス」としていた。しかし「ジャンボジェット」が一般に受け入れられていることもあり、現在ではボーイング社も公式の場で用いることが多い。

.. 1969年2月に初飛行してから現在でも生産が続けられているロングセラーの旅客機で、エアバスA380が初飛行するまでは世界一巨大な旅客機であった。
.. 米国や日本の政府首脳専用機としてや、NASAのスペースシャトル輸送機等にも転用されている。
.. なお、現在の航空会社1社の保有機数は日本航空の70機が世界最多である。

.. 1960年代の国際航空路線は、1950年代に開発されたボーイング707やダグラスDC-8という、通路を1本持った乗客数150〜200人の機体が主力であった。各航空会社はこれらの機体を使用して旅客の獲得競争をしていたが、当時国際路線のパイオニアを自負していたパンアメリカン航空は、次世代の旅客機として従来機の2倍以上(350〜450人)の乗客を乗せる大型機の開発をボーイング社に要求した。


.. パンアメリカン航空747-100その時のボーイング社は米国空軍の次期戦略輸送機計画でロッキード社に敗れた直後であり、その基本計画を技術、人員共に転用することでパンナムの要求に応えた。
.. このため、空軍の仕様を満たす為に考えられた、機首部分を上げて戦車等の車両を乗降できるように作られた、操縦席および乗員収用部を二層構造に設置する特異な形状が、そのまま旅客機の機体となった。
.. ただ、当時の航空需要から考えるとこの機体サイズはあまりにも大きく、ボーイング社内でも懐疑的な雰囲気もあったが、パンナムの名物会長ホアン・トリップの強い意志により計画が進められた。
.. 計画が公表されパンナムが20機を発注したことが発表されると、パンナムとの競争上の脅威にさらされるノースウエスト航空や日本航空、トランス・ワールド航空など他航空会社からの発注が続き、計画は進んだ。
.. しかし、エンジンが所期のカタログ上の性能を出せず、最高速度の不足、航続力の不足が生じた。
.. これらは運用上深刻な問題で、このため全面的な軽量化の必要が生じて設計の再検討を余儀無くされ、各部の重量軽減でエンジン出力の低下をカバーする措置がとられた。
.. その後、エンジンは強化されたものの、軽量化で生じた脆弱性は、ノーズギア付近の補強をはじめ、様々な改修という形で影響しつづけた。

.. ボーイング747は一度に多くの旅客を運ぶ超大型機であるため、安全確保のためには当時の最新鋭の技術が多用された。
.. また超大型機にもかかわらず従来と同じ飛行場で運用できるように設計されていた。

.. 経済性を考慮して、フェイルセーフを全面的に採用した機体。
.. これは、少しの故障では墜落せず、少なくとも飛行場にまでは安全にたどり着けるように設計に配慮し、完全な飛行機(セーフライフ)に整備するための過大な点検と交換のコストを抑えるための方針であり、747の「信頼性整備方式」による経済性を支えた大きな力である。





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.. 古希を過ぎて、若さを保つ秘訣。
.. それは、クヨクヨせず、何に対しても批判精神をもつ事。

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